かつてブラック企業で働いていたときの話。
おそらく一生忘れることはないでしょう。
それくらいショッキングな事件でした。
わたしが入社して二年目の夏。
同じ職場の先輩が亡くなりました。
後から聞いた話では、首吊り自殺だったそうです。
そのときのことを振り返ります。
その先輩は、入社年度がわたしより3つ上でした。
職場の席は自分の斜め後ろ。
その先輩の印象を一言で表すならば、
「優しいけれど、仕事の要領はあまりよくない」
今思うと、いつも仕事に忙殺されていました。
ただ、弱音を吐いたところは見たことがありませんでした。
そして、仕事に追われているのは周りの人も同じ。
わたしたちが勤めていたのは、紛れもないブラック企業でした。
みんな同じように休日出勤をし、月100時間は優に残業していました。
そういうこともあり、先輩が苦しんでいることに気づけなかった…
本当に、もう少し何かできたのではないか、今となっては後悔しかありません。
亡くなる前日の先輩も、特に変わった様子はありませんでした。
いつものようにみんなで遅くまで残業していたと思います。
仕事で大きなトラブルを抱えていたような話も特に耳にしていません。
いや、もしかしたら何らかの兆候は見せていたのかもしれません。
必死にSOSを発していたのかもしれません。
それでも、そのときのわたしはそれに気づくことができませんでした。
そして当日の朝。
その先輩は会社に出社しませんでした。
仕事を休む、という連絡は誰にも届いていません。
「珍しいけど、遅刻かな?」
そのうち来るだろう、はじめはそう思いあまり真剣に考えませんでした。
しかし、そのまま一時間経ち、二時間経ち…
それでも先輩は現れず、連絡すらきませんでした。
さすがに不審に思った係長が、先輩に電話をかけます。
電話はつながりませんでした。
お昼休みになっても、連絡はつきません。
職場のみんなも、そのおかしさに気づき始めます。
「家まで見に行ってくる」
そう言ったのは、先輩の直属の係長でした。
係長が寮まで先輩を迎えに行くことになりました。
先輩は、会社の寮で一人暮らしをしていました。
(ここからは、実際に現場を目の当たりにした係長から聞いた話です)
寮に着き、玄関の名札を見ると、
…先輩はまだ部屋にいることが分かりました。
(寮の玄関は共用で、寮生用の名札の裏表で入退出を管理しています)
先輩の部屋へ行き、ドアをノックして呼びかけるのですが、返事はありません。
ドアノブを回すと…鍵がかかっていました。
そこで電話をかけてみるのですが、反応はありません。
仕方なく、寮の管理人さんに事情を説明することにしました。
管理人さんに鍵を開けてもらい…あっさりとドアは開きました。
入り口から見た室内は暗く、とても静かでした。
1つ変だったのは、なんともいえない臭いが鼻孔を突いてくること。
引き寄せられるように、部屋の奥へ歩みを進めます。
部屋の奥で先輩が、首を吊って動かなくなっていました。
係長は手を震わせつつもつつも縄を解き、先輩を床に降ろします。
そして即座に救急車を呼んだのですが、とっくに手遅れでした。
これが翌日の朝礼で聞かされた、事の顛末です。
自殺の理由については、特に明かされませんでした。
遺書があったのかどうかも、分かりません。
(自分は仕事のせいだと思ってますが、今となっては知る術がありません)
当時は突然すぎて、頭の理解が追い付きませんでした。
先輩の死が、なんだか遠い世界の出来事のような感じがしました。
涙は出なかったし、悲しいと考えることもできませんでした。
職場の他の人たちはどのようなことを考えていたのかは分かりません。
ただ、泣いている人はほとんどいなかったので、自分と同じ状態だったのかもしれません。
朝礼が終わり、その日も普段と変わらず、淡々と業務をこなしました。
むしろ仕事に集中することで、自殺のことを考えないようにしていました。
そしていつものように、みんな夜遅くまで残業しました。
(唯一、管理職の人だけは、慌ただしく動き回っていた記憶があります)
先輩の話は、その日は誰も口にしようとしませんでした。
先輩の自殺について落ち着いて考えられたのは、帰宅してからでした。
部屋で一人「先輩は亡くなった」その事実を反芻します。
しかし、涙があふれるほどに悲しいという感情は不思議と湧いてきません。
むしろ「一人減って仕事が回らないのでは?」そんな業務に関する心配をしていました。
そんな自分の薄情さにふと気づいて自己嫌悪に陥る。
先輩と自分はそこそこ仲が良かったです。
先輩は車通勤で、自分が終電を逃したとき家まで何回か送ってもらいました。
お互い野球が好きという共通点があり、学生時代の部活の話などでよく盛り上がりました。
泣けない自分が嫌で、そうやって先輩との思い出を振り返ることで無理やり悲しい気持ちを引っ張り出そうとしました。
…それでも、涙は出ませんでした。
このとき泣けなかった理由は、未だにわかりません。
身体の防衛反応かもしれないし、日々の残業で、自分も相当おかしくなっていたのかもしれません。
(しばらく経って落ち着いた後に先輩のことを思い出したときは、ぼろぼろに泣きました)
それから一週間が経ちました。
先輩の代わりに、他の支店から、補充の人員が充てられました。
先輩はいなくなりましたが、それで仕事は回るようになりました。
これまでと同じ職場の日常が戻りました。
唯一違うのは、そこに先輩はいないこと、この月に予定されていた職場のバーベキューが中止になったことです。
そして今。
先輩が自殺してからまもなく、自分はそのブラック会社を退職しました。
前々から辞めたいとは思っていたものの、
「自分がいないと仕事が回らなくなり、残された人が大変だ」
それがつっかえとなり、退職を躊躇していました。
しかし、この一件で、一人減っても人員は補充され、なんとかなるのだと分かりました。
あっさり辞める決心がつきました。
辞めてからというもの、ときどき当時のことを振り返ることがあります。
実は、先輩が要領が良くないことを裏で馬鹿にされていたことも知っていました。
仕事が忙しすぎて中々会えないことが理由で、恋人と別れたことも聞いていました。
今となっては自殺の真相を確認する術はどこにもありません。
しかし、もっと何かできたのではないか、そんなことを延々と考え続けてしまいます。
どうして先輩が自殺するほど悩んでいたことに気づいてあげられなかったのか。
ただ何度も頭の中でシミュレーションしても、当時の自分では先輩を救えない。
そんな無力感を感じ、自分が嫌になるということを繰り返しています。
誰のせいとか、誰のせいではないという問題ではなく、
ただ、自分は今後もこの後悔と自責の念を一生抱えて生きていくのでしょう。
※特定を防ぐため、一部の事実を改変して書いています